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いろいろなのだ。
リンクのページがすこし増えましたので、よろしかったらあっちこっちサーフィンして遊んでいってみてください。リンクって、ちゃんと管理できるものならたくさんつけたいのだけど、なかなかたいへん。相互リンクなんていうのもやってみたいけど、やはり友だち知り合い周辺に限ったかたちでしかできません。いまですらちょっとガタガタな気がする。性格が大ざっぱなんだな。部屋がすぐ散らかっちゃうのもきっとそう。このホームページにリンクしてくださっているかたがた、どうもありがとうです。URL付きで掲示板にでも書き込みしていただけるとうれしいです。
たしか去年から言ってたような気がするんだけど、コジマのまんが作品集なんですが、いまかいてるところです。これは時間のすき間を縫ってかいているので、全ページ仕上げるのにあと数ヵ月かかることになりそうです。そのあと本のかたちにするのにまた数ヵ月かかってしまうのかなあ。いま現在ホームページにちからが入ってないのはそのためなんですが、まだしばらくこの状態が続きそうです。画像方面の更新を観にきてくださっているお客さんには申し訳ありません。もちょっと待っててね。
最近のコジマの日常
そんなわけで、時間があるときは新作執筆しているので、ほかにはとくになにもしていません。読書もしていない。わずかに「千一夜物語」のなかから「鳥獣佳話」を読んだくらいか。こりゃほんとにほんのちょっとだな。そうだあとマンディアルグのエッセイ、「ボマルツォの怪物」を読んだっけか‥‥。
5月からこのアサヒネットが、ひと月150時間まで基本料金で使えるようになりました。4月までは30時間だったんだけど、いっきに5倍。毎晩5時間ネットサーフィンしても大丈夫ってことなんだけど、でもそんなにやらないよな‥‥。
劇団「Rサーカス」は、こないだ次回公演のチラシ描かせていただきました。いまのところその絵がちょっと飾られています。
「まるいすカンパニー」は楽書館周辺ではおなじみ、こくぶたみえさんのホームページ。できたてほやほや。アクセスカウンタのつけ方がまだわからないとかいってたけど、イラストをカラーにするのがまだわからないとかいってたけど、そういうこと全然気にしないのが国分さん(これ褒めてんですよ)。
ぼくの場合、まんがはいつもストーリーを考えながらかくことが好きなので、なんだかけっこう時間がかかってしまうんです。予定どおりに完成することがあまり好きでないの。いまかいているのも3月からかき始めたんだけど、その頃に考えていた構想は、もはやみるかげもありません。
そうそう、ずっとまえ某メジャー出版社でまんがをみてもらったときに、「自己満足の権化」というあだ名をいただいたのだけど、まったくそのとおり。完成させることよりも、かいていることをまず自分が楽しみたいのだな。こんどはできるだけ完成させるつもりでいるけれど。
座禅はなんだか続いている。でもとくに進展はなし。
座禅といえば、こないだ「白壇の香り」とかいうアロマキャンドルが大安売りだったから試しに買ってきて灯していたのだけど、それがけっこういいかんじの匂いで気に入っていたんです。たしか「瞑想の香り」とかって小さく書いてあった。どこかの本で瞑想している最中にろうそくの炎に集中するっていう方法もあると書いてあるのを読んだ気もしたから、そういう意味でも面白いかもって思ったんです。
で、それがすぐになくなってしまったから、つぎはマウンテンベリーの匂いっていうのを買ってきてみたんです。そしたらこれがなんともすごい匂い。びっくりしてしまった。くしゃみが止まらなくなって、目がしくしくしてしまった。水泳中にあやまって鼻から水を吸い込んでしまったかのような鼻の奥の気持ち悪さ。このアロマキャンドルを灯けるときは横に消臭剤を置かなくてはならなくなってしまった。こんなに不快ならもう灯けなければいいのだけど、ろうそくを見ると灯けなくては気がすまないぼくですから、いまはこれをはやく使いきることに専念してます。きっとぼくの部屋にマウンテンベリーが合わないのだろうなあ。部屋によってはいい匂いにもなるのかも‥‥。
電話もテレホーダイで、夜中だったら基本料金だけでできるようになっているのだから、今後のコジマのネットサーフィンのやりかたなんていうのも変わってくるのかな。どうなるんだろ。
実際にはそんなに長いことインターネットやっても意味ないんだけど、つなぎっぱなしにしていられるのがすこしうれしい。あせらずのんびりできるかもしれない。つないだままトイレに行ってても、コーヒー入れに行ってても、もうそんなに気にならないな。モデムの遅さからいままで敬遠していた重たいホームページなんかも観られるようになるのかもしれない。
いやはや‥‥。
こないだも書いたとおり、現在ぼくはまんがの制作中です。
そんなわけで、ホームページの更新も滞り中なのだ。
しかし、完成する見通しも立っていないうちからこういうことを書いてしまうのは、ちょっと問題かもしれないなあ。妙な思わせぶりしといて、完成しなかったら言い訳のしようがないですものねえ。完成してから、じつはいままでまんが制作してたんですよーとか書いたほうが断然カッコいいと思うのだが。
まあそれでも3月くらいからぼくはずっと毎日まんがかいてたんですよ。でもね、なかなかでき上がらない。まだまだかかりそう。どういうワケ?
なんか、仕事ではなく、自主的にまんがをかくのはひさしぶりぶりでね、仕事だったらなんとなく編集さんのおかげで出来てしまうのだけど、自主的にかこうとすると、けっこう勝手が違うものだなー、なんて思いました。自主的にかくのって、360度どの方向にでも行けるから、それが逆に迷いを誘うのかな。仕事だとある程度のワクが設定されているから、そのなかでかけばいいやってんで迷いが少ない。
そういう迷いを一掃するのに2ヵ月くらいかかってしまった。最近ようやく出発点に立ったところ(笑)。まだまだ修行が足りませんね。このホームページ、ときどきプロのまんが家さんも覗いてくださっているようで、そういう方々には笑われてしまいそうでちょっと恥ずかしい。まあそれでもいいですが。
やっぱ先のことわかんないから、まんがの話題は少なめにいこう。
そんなわけでここのところ、日々の暮らしのスピードアップっていうのがテーマです。どのようにスピードアップしたらよいものか、どれを捨て、どれに集中するか、のんきなコジマがいままで逃げてきた今回のこの人生での最大級の難関、「能率」とはなんぞやーっ!?
たとえば読書しているときなんですが、ふっと気がつくと、音読しているときと同じくらいのスピードで読んでいることがあります。つまり声に出して読むスピードで心のなかで読んでいるんですよ。いままでこれくらいの速度で読むのが普通で一般的で平均的で世の中そういうもんさって思っていたのですが、どうもそうではないのが現実みたいですね。読書家の方々のホームページなどを拝見すると、みなさんそりゃもう超特急で読んでらっしゃるみたいで、こりゃかなわんと、コジマはたじたじになってしまいます。どうしてそんなことができるワケなんだろう。
でも、そんなふうなノロマなカメおじさん(古い!)でも、ときどき読んでいる本に夢中になっているときなんかは、知らず知らずにスピードアップされてたりね、そういうこともある。早く先が知りたくて、面倒な熟語なんてのはどんどんすっとばして、つぎつぎ行っちゃうこともある。
そこらへんの要領を覚えると、もうちょいスピードアップ、能率的な読書ができるはずですよねえ‥‥。
それから、睡眠時間。たくさん眠りたいけどたくさん起きていたい。これを両立することは可能なのだろうか。これは人類の永遠のテーマ。これが解決できたら、ノーベル賞。と思っているのはぼくだけかなあ。これはコジマの今後の研究テーマであります。
とまあそんなふうに、うまい時間の使い方を考えつつ、日々暮らしているわけですよ。
そういえば、こないだマンディアルグのエッセイ集を読んでたって書いたけど、それでなんとなく考えた。ぼくはマンディアルグのこと詳しくないけれど、このひといつでも比喩の使い方がすごいなーって思うの。なんかつまんないありふれたハナシでも、ヘンテコな比喩くっつけてシュールレアリズム小説にしてしまうっていう感じ。なんというか、ドライブするハイジャンプ比喩。そりゃ違うよって識者に言われそうだけど、コジマにとってのマンディアルグってのはそういうひとなのだ。お行儀悪くてごめんあそばせ。
で、最近のぼくは、毎日ほぼ同じことの繰り返しで、なんだか単調な暮らしをしているからね、そこらへんをさまざまなハイジャンプ比喩を使ってみると、どうみえるかなーなんてことちょっと考えてみました。もちろん全然マンディアルグ調にはなりませんし、こんなところでマンディアルグ大先生のお名前出しちゃってごめんちゃいなのは、顔から火が出るほどわかっちゃいるのでありますよ。ただなんとなく文章で遊んでみたかっただけなのだ。許してちょんまげね。
このあいだのゼウス大神も西方に赴くのがはるかかなたに偲ばれるかのような夕暮れ時、いにしえのアテナイの城下を思わせるわが駅前の商店街を凱旋するテーセウスのようにこの34歳も半ばに達したコジマケンことこのぼくが歩行していたときのことである。ぼくの斜めまえ、つまり右舷2時の方向を3人の水辺で踊るニンフを思わせるような愛らしく、また美しい女子の高生が昆虫入りの化石を弄ぶ子供たちのように楽しそうに談笑しながら、右足と左足を交互に前方に振り出して歩いていた。彼女たちは、雷鳴をそのなかに封じ込めたかのような真夏の入道雲を思わせるあの白く奇抜な靴下をはいているわけでもなく、またオリンポスの神々がたびたび矢を番えたくなる魅力に抗しがたかったあの栗毛いろの雄鹿を思わせる茶髪をなびかせているわけでもなく、はるか古代からの普遍の淑やかなる美を生きる永遠の少女像、あるいはすべての男子の深層に位置するアニムスの最高位に準ずるかのようなまことの女子の高生たちであった。それはビクトリア朝時代の貴族のお茶会のように意識的な上品さを演出するのとはまたべつのなごやかな雰囲気で、その3人のニンフたちが笑いながら話しているのが、ぼくの耳のなかのフランス料理にもよく出される高級かつ高名美味なるカタツムリのごとき骨片に、ギターの調律に使う二股の鉾にも似た金属片をはじき鳴らしたときのように響きわたった。ぼくとしては、闇夜に敵地に迷い込んだオデュッセウスが聞き耳を立てるかのように周囲の会話をとくにこのでんでん虫に反響させるつもりもなかったのだが、湿地帯のカマドウマのようにたくさんのひとが歩いているなかでかのニンフたち、一際大声でまさに天空に輝く7色の虹のうえで昼寝をしている牧神にも聞こえるかのように話をしているからぼくには金色の衝立てひとつ隔てた情事にはたとめぐりあわせたかのように、ついつい聞こえてきてしまったのである。
「ねえねえ、彼の出す液ってさー、なんかブツブツしてない?」
「えーっ、なにそれーっ」
というのがまずぼくの耳骨を震わせてきて、ぼくはいったいこれは何の会話だろうと一瞬天地創造の奇蹟を目のあたりにしてしまったかのような唖然とした光栄に満ちた瞬間の胸の高鳴りのようなものを覚え、思わずその小鳥たちが恋の唄をさえずっているような愛らしい会話の続きが聞きたくて、東の国ではるか昔に雀のお宿で頭巾をいただいたあの老人の出てくる昔話の一場面であるかのごとく耳をそばだててしまった。
「うちのはサラサラしていたよーっ」
と、またひとりの天も真をも爛ずる漫をいだいた少女が、この星のできるまえから輝いていたという太陽のようにほがらかに笑いながら上下の唇を器用に動かして言の葉を商店街の空気に乗せると、またべつの少女がキャロル殺しの笑みを浮かべて、上下の唇を器用に動かし、そのあいだから商店街に漏れるハネムーン帰りの新婚夫婦が好んで土産に買ってくるあの北国産の楓砂糖のように甘い空気を音に変えて答えるのであった。
「えーっ、それってさー、顕微鏡で見ると、魚が泳いでるんでしょーっ」
ああ、なんという会話だ。いくさを前に控えた古代都市国家を鳥瞰するようなひとの行き来の激しいひとつの商店街のこのなかで、こんな無邪気な会話を耳にすることができるなんて、ああぼくはなんという幸せ者だろう。このままこの天使の繰りごとのような会話の成り行きを聖母の愛で見守っていけたらと、狂おしいほどにおん年34歳のこのぼくは、左右に別れつつも繋がっているまるでおおきなくるみによく似た脳といわれる今世紀の人類には解かれぬ謎を数多く秘めた器官を通して思わざるをえなかったのだが、この3人の天使たちとの歩幅が合わず、ぼくの熊のような左右の足の往復運動のほうが計6本のカモシカのような10代の天使たちの往復運動を追い越さざるをえなかった。それでこの美しい神々の伝説のようとはとてもいえない最近のぼくの周辺での流れる水の上を漂う一枚の落ち葉のような出来事は、16世紀、シェイクスピアの描いたテンペストの過ぎ去りしときの雲間からプリズムのような光のきらめく青空を覗かせ安堵の息をつぐ束の間のように幕となるのである。
脳髄の左側であるか右側であるかはさだかではないが、コリアンダー書店の老人のように我が記憶のページをいくつか繰ってみるならば、ぼくが世間から中学生と呼ばれる青とも春ともまだ縁を結ぶまえのほんの小さな季節のこと、同じクラスのまるでクック船長率いる当時の大海賊国家海軍に発見されるまえの南国タヒチの娘のようにのどけくおおらかな女の子が言っていた名言がある。「男子がエッチなのはいやらしいだけだけど、女の子がエッチなのは可愛いわー」。
この言葉、20年経ったいまでもまったき真理であると、上に記した晴れた日のアスファルトに見える揺らめく逃げ水のような些細な出来事を通じて、あらためて思った次第である。